文京区・本郷にある雑居ビルの小さな一室は、高いビルに阻まれてあまり日差しは入らない。明るく開放的な空間にはほど遠いが、外の環境に邪魔されず、頭の中に広がる空想を黙々とかたちにしていくにはぴったりの環境だろう。空想地図作家・今和泉隆行さんは、この小さなオフィスの中で空想の地図を広げている。
「中村市」。
壁に貼られた大きな地図には、彼が30年もの歳月をかけて描いていった都市の地図が貼られていた。ここは、日本ではないとある国の首都「西京市」から南に30キロ離れた内陸部にある街。新幹線も停車し、元国鉄である「Nyrail」のほか、私鉄である「中村電鉄」「西枝電鉄」、さらには地下鉄も走っているような大きな地方都市である。しかし実際、この街は今和泉さんの頭の中にしか存在しない。圧倒的なリアリティを持つ「空想都市」なのだ。

一人ひとりに違う景色を見せる街
「5歳のころ、それまで住んでいた横浜市(神奈川県)から日野市(東京都)に引っ越したんですよ。そこは、家族みんなにとって縁のない地域。当時はまだインターネットもない時代だったので、近所のスーパーや商業施設を調べるためには紙の地図を使って調べるのが当たり前で。新しい暮らしを開拓するために、地図は欠かせない道具だったんです。
だから、当時私の家にもすぐに手に取れる場所に地図があり、小学校にあがる前くらいから毎日のように地図を眺めていた。そうして、いつの間にか現実の地図を真似て、空想地図を描きはじめるようになったんです」

現実の劣化コピーになることを嫌い、当初からオリジナルの地図づくりを行ってきたという今和泉さん。当時の地図を見ると、まるで初めてギターを手にした少年が3コードでオリジナル曲をつくるような熱い初期衝動にあふれていたのがよくわかる。
それから30年あまり。さまざまな知識とテクニックを身に着けた今和泉さんは、中村市の地図に磨きをかけ続け、今や素人目には現実の都市との区別がつかなくなってしまった。

今和泉さんが7歳のころに描いていたという空想地図
ところで、この中村市にモデルとなった都市はあるのだろうか?
「空想地図を描くワークショップを行うと、参加者のみなさんは自分の地元に影響を受けた地図を描く方が多いんですよね。中村市も内陸部にあること、首都から30キロという距離感など、自分の故郷である日野市をはじめとする多摩地域に影響を受けている部分はあると思います。
ただやっぱり、私がつくる地図はどこかのコピーにしたくないと思っているので、明確なモデルはむしろ持たないようにしていて。2005年からこれまで、日本全国にある300以上の地方都市を巡っていますが、実際の都市に足を運ぶことによって、その街の商業施設をどんな客層が使っているのか、再開発ビルにはどれくらいの空きテナントがあるのかなど、地図からではわからない都市の『生態系』が見えてくる。それを知ることで、どこにもないけれどリアリティのある街が生まれてくるんです。結果的に、中村市はいろいろな都市の要素がリミックスされた街になっていますね。
おもしろいのは、そうしてできたどこにもないはずの街の地図が、見る人によって一人ひとり違う街を思いおこさせることなんです」
実際に、取材班も地図を見ながら「ここは〇〇っぽい」と思い思いの街について語りはじめ、一瞬取材にきていたことを忘れるほど話し込んでしまった。明確なモデルはなく、リアリティだけがそこに見えるからこそ、鑑賞者によってさまざまな街並みが見立てられるのかもしれない。

限りなく「現実」に近い街を描く視点
一般的に、「リアリティ=現実的」という言葉は、現実のようでありながら、あくまでも「現実ではない」という意味が込められている。けれども、今和泉さんの話しぶりを聞いていると、彼の中で、中村市が限りなく「現実」に近い存在であることがよくわかる。取材班の「もしJINSが中村市に出店するなら?」という問いかけに対して、今和泉さんは壁に張られた大きな地図を見つめ、う〜んと悩みながらこう答えてくれた。
「JINSの場合、どちらかというと若い人が集まる大型商業施設に入っているイメージがあります。そうすると、中村市の中心繁華街にある『旭丸』という百貨店ではなく、中村駅ビルの『WISTA』か、ファッションビルの『QUE』に入っているかなあ。郊外であれば大型ショッピングモールのラフタ中村も家族連れが訪れるのでJINSには最適ですね」
今和泉さんは、まるで本物の地図を見るかのように、次々に地図の上の“出店候補地”を指し示していく。その迷いのない手の動きは、彼にとって中村市が空想の中にある架空の街ではなく「たしかに存在する」ことを証明しているようだ。

今和泉さんはこのリアリティをつくるために、人の流れや自然環境だけでなく、歴史的な事象、地価、周辺都市との関係など街をつくる一つひとつの要素に対して、異常なまでのこだわりを持ちながら思考をめぐらし、線を引いている。地図を描くとき、今和泉さんの目には、中村市が「見えて」いるのだという。
「自転車や路線バスから見える風景くらいの解像度で、中村市の景色を思い浮かべながら地図を描いています。またそのとき街の風景だけでなく、俯瞰して見た都市の全景や実際の地図の雰囲気も、同時に思い浮かぶんです。その2つの視点を何度も行き来して、反すうすることで一本一本の線が生まれていくんです。とくにいちばん書き直している中心市街地は、映像として鮮明に思い浮かべられるほど『見えて』いますね」
イメージの中でバスから中村市の風景や街ゆく人々を眺め、ときおり俯瞰しながら、その情報を線と文字だけで綿密な地図として描く。これは、長年にわたって地図を描き続けてきた、今和泉さんだからこそできる技術だろう。しかし、鑑賞者である私たちも、日ごろから似たような視点を持ってみるとどうだろうか。
今和泉さんも著書『地図感覚から都市を読み解く』(晶文社)でかいているとおり、普段目的地や行き方を調べるためだけに使っている地図からも、「街の個性や雰囲気、利便性、自然や開放感」「どんな生活をしている人が、どのくらいの範囲から集まってくるのか」を読み取ることができる。さらに今和泉さんの空想地図の描き方をヒントにすれば、普段であれば目に止まらないお店や施設、その街の歴史に気づけるかもしれない。

リアリティは「例外」が生み出す
いまもなお広がりを続ける中村市だが、全体構想はすべて今和泉さんが手がけるものの、そのすべてをひとりきりでつくっているわけではない。自然地理や鉄道、都市のデザインなど、さまざまなジャンルの専門家からのサポートやアドバイスもまた、中村市の強度を確たるものにする。
「こういう活動をしていると、おもしろがってアドバイスをくれる方がいるんです。実は中村市郊外を流れる大楽川と日根川の川幅は、当初描いていた2.5倍に拡大しているんです。というのも、以前この規模の平野をつくるためには川幅が狭すぎる、と自然地理の専門家に指摘いただいたことがあって。また、ずいぶん前ですが東京メトロ勤務の方に、90年代以降に完成した地下鉄ならここは通らないと指摘されて、修正したこともあります。そういった意見を取り入れることで、中村市はより現実的な都市になっていったんです。
ただ、ほかの人の意見を取り入れるのも実は難しいんですよね。修正を提案してくれる人は、自らの経験や理想とする合理性に基づいて『自然』な姿を提案してくれます。でも現実って、意外と例外だらけで。たとえば、江戸時代に武家が住んでいた地域は官庁街や学校になることが多く、一方で町人地は繁華街に発展しやすい、というセオリーがあるのですが、福岡市の場合、その名の通り武家地であった『大名』が繁華街になっている。リアリティを追求すればするほど、自然と例外のバランスをとるのって、すごく難しくなるんですよね」

完璧に合理的な人間がいないように、完璧に合理性のある街はない。どこかに例外があり、どこかに過剰がある。そのような合理性からのズレが、私たちが住む街の街らしさを生み出しているのかもしれない。
地図は私にとって「自己表現」ではない
30年にわたって中村市と向き合い続けてきた今和泉さん。作者である彼は「中村市」にとってどのような存在なのだろうか? たとえば、かつて一斉を風靡したゲーム「シムシティ」のように、自らが市長となってつくりあげた理想の街なのだろうか。
「いえいえ。そもそも、中村市は私にとってとくに愛着を感じるような都市ではなく、どこにでもあるような郊外都市なので(笑)。私は首長として理想の都市をつくりたいわけではなく、中村市の中にどのような事情があって、どんな環境によって、どんな施策が行われることで街がどのように変化していったかを追いかけたい。その意味ではひとりの住民であり、『調査員』といった程度の肩書きでしょう。
事情を考えたり、リアリティを考慮せずに『これが俺の描きたい都市だ!』という態度で描くこともできますよ。でもそんな理想を盛り込んでも、自分の望みが視覚化されるだけであり、それはすぐに飽きてしまう。今でこそ、美術館で展示をさせてもらえたり、現代アートのイベントに呼んでもらうこともありますが、『描きたいものを描いているわけではない』という意味では、この地図は私にとって『自己表現』ではないんです」

中村市は、今和泉さんにとっての「自己表現」ではない。とするならば、いったい彼は何のために中村市を描き続けているのだろうか? その秘密を解明するヒントが、「空想」というキーワード。実は「空想」の主語は、今和泉さん自身ではないという。
「『空想地図』とは、私にとって『空想』というよりも、これを見た人にとっての『空想』という意味の方が大きい。この地図を見ることで、鑑賞者の中で中村市に対する空想を触発したいんです。
友人知人に見てもらったり、美術館で展示したときに印象的だったのが、地図好きだけではなく、普段は紙の地図なんてまったく見ないような人、むしろ地図が苦手な人たちがこれを興味深く眺めていたこと。一般的には、地図って現実の都市の姿を描いた道具ですよね。そこには『答え』があるから自由な想像は難しい。
でも中村市には自分の空想でしか行くことができません。現実の街のように、自分の足で行ったり、スマホで検索することもできない。だから地図を通して『ここにはどんな家が建っているのだろう?』『この道にはどんな人が歩いているんだろう?』という空想が許容され、地図になじみのない人も、地図からこの街の日常を想像する入口になるんです」
そんな「空想」を誘発するために、今和泉さんが編み出した仕掛けが、中村市の品々。

各地の美術館で行われる展示では、デザイナーをはじめとするパートナーたちの協力もあって、カードが入った財布の落とし物や架空の買い物のレシート、コンビニやスーパーのビニール袋、百貨店の包装紙にいたるまで、中村市にまつわるさまざまなグッズが地図と合わせて並べられている。
地図によってマクロな視点を得ると同時に、その場所での暮らしが生々しく写るディテールから、ミクロな人々の生活が浮かび上がる。そうして、空想を刺激された鑑賞者の目にもまた、中村市の姿が「見え」てくるのだ。

ついさっきまで、古いアパートに設置されていたようなポスト。中には架空の公共料金の請求書や郵便物がたまっている
都市には過去と未来が描かれる
これまで日本各地の地方都市を観察してきた今和泉さんは、都市がどのような構造によって成り立っているのかをつぶさに見つめ、そこで得た知見を中村市の地図に反映させてきた。
そうして都市をあらためて見ていくと、時代によって都市が目指す発展の方向性も変わってきたことに気づくという。日本では近年、高度経済成長を経て自家用車が全国的に普及しはじめると、全国の地方都市で城址や駅周りに発展した中心市街地が衰退。その代わりに郊外の大型商業施設が繁栄してきた。中村市の空想地図は首都の近くという地の利もあってか公共交通を使用する人が多く、現実で起きているような車社会の影響は受けていない。しかし、現実の地方都市ではこの動きが加速し、中心市街地の空洞化や都市の均質化などが問題となっている。
「今から20年ほど前に時間を戻すと、60〜70代の高齢者には車に乗っていない人も多かったので、車に乗らずに行くことができる中心市街地の中心性がかろうじて保たれていました。しかし、今では高齢者でも運転できるのが当たり前。そのため、最近の日本では交通弱者のことが視野に入っていないまちづくりが多くなっています。
90年代には中心市街地の再開発の一環として、百貨店や総合スーパーをはじめとする商業施設を積極的に誘致することが多くありました。しかし、時が経つにつれそうした商業施設も撤退し、空きテナントが目立つようになっていく。ここ10年は、全国的な再開発のトレンドとして、住宅(マンション)や市役所、図書館などの公益施設、コワーキングスペース、ホテルといった商業寄りではない施設を誘致することが多くなっています」

今和泉さんによれば、近年の再開発のトレンドを象徴するのが福井駅前の再開発。23年度末の北陸新幹線延伸を前に行われている再開発事業で、福井市は大規模商業施設を誘致しないという判断を下した。
「新幹線が延伸される一方で人口増加が見込めない中、福井市では他地域からのビジネス客を見込んで、カンファレンスホールやインキュベーション施設、そしてホテルなどを誘致しています。それと、地場の料理を提供するこだわりのフードコート。そうして、住民向けの商業施設ではなく、住民と外から来た人が交流する場所として再開発が計画されているんです。
このように、これからの社会の姿を予想して再開発は行われる。都市の姿には、過去にどのような歴史があったのかということだけでなく、未来にどのような姿になりたいのかもまた書き込まれているんですよ。中村市の地図にも、そんな未来の姿を反映させていかなければならないですよね」
「だから——」それまでの流暢な語り口から一転、今和泉さんは急に神妙な横顔で中村市を眺めながら「本当はこのあたりなんか、もっと描き込んでいかないと」と郊外にあるニュータウンを指さす。いったい、どこに修正の必要があるのか。いっしょにその場所を見つめてみるが、素人には皆目見当もつかない。「まあ、地図を改訂してリアリティを上げても、正直反応はないんですけどね(笑)」地図から顔を上げると、今和泉さんはいつもの笑顔に戻っていた。

「地図のほかにも、見る人が中村市を感じるさまざまなものをつくっていきたいですね。たとえば、食べもの。ソースのかかった大盛り定食があれば、体力が必要な現場作業員たちの姿が見えてくるだろうし、キレイに盛り付けられたワンプレートランチがあれば、休日にすてきな内装のカフェに行くカップルの姿が浮かび上がる。料理を通じて中村市の姿が空想されるでしょう。
あとは、中心部から郊外まで走るバス車内の音を聴けるような仕組みもつくってみたいですね。ドアが開く音とともに舞い込んでくる、繁華街の喧騒、パチンコ店の音、勢いよく走る車のエンジン音、あるいは鳥の鳴き声とか。暮らしの中にある音を聴けば、きっとその街の情景もくっきり浮かんでくるはず。そうすれば、中村市をより肌で感じてもらえるんじゃないかな」
現実でも都市の変化に終わりがないように、空想地図にも終わりはない。きっと今和泉さんはニュータウンを修正したら別の場所が気になってしまうだろうし、ランチメニューをつくったら、今度はまた別の角度からこの街を感じられるものをつくり出してしまうのだろう。154万人の人口を抱え、143平方kmという面積からいまだに広がり続ける中村市。この街の調査員は、今日も東京の片隅でひとり空想を巡らせている。

あらためて、壁に貼られた大きな地図を眺めてみる。はじめて見たときはただただその細かさに驚くばかりだったが、今和泉さんの話を聞いたあとでは、郊外の大型商業施設や、市内にある名屋町の商店街を昔から支えてきた洋服店、車窓から見える川沿いの小学校、そしてそこから元気いっぱいに出てくる学校帰りの子どもたちの姿まで、すこしずつリアリティを持って頭に浮かぶようになってきた。
今和泉さんが一人つくり、私たちが地図から「空想」する、実際には存在しない街。この街が今後どう広がっていくかは、鑑賞者である私たちはもちろん、地図を描く本人にすら見当がつかない、という。でもそこにはたしかに、その場所で暮らす人々の息遣いがあり、限りなく現実に近い時間が流れていた。

【プロフィール】
今和泉隆行(いまいずみたかゆき)
1985年生まれ。7歳のころから存在しない都市である「中村市(なごむるし)」の地図を描き、現在も「空想地図作家」として活動を続ける。学生時代に47都道府県300都市を回って全国の土地勘をつけ、2015年に株式会社地理人研究所を設立。地図デザイン、テレビドラマの地理監修・地図制作のほか、学校の特別公演や社員研修のワークショップなど、地図を通じて人の営みを読み解き、新たな都市の見方を伝える活動も行う。主な著書に「みんなの空想地図」(2013年)、「地図感覚から都市を読み解く」(2019年)