東京都新宿区、四谷駅から徒歩5分。巨大な商業ビルを通り抜け、路地を行く。その先に「糀カフェ2539」はある。古い民家を改装したこじんまりとした佇まい。ワクワク感をたずさえて中に入ると、今回の主人公・祐成陽子さんが待っていた。
「今日はどうぞよろしくお願いします。あら、あなたがカメラマンさん? どうしましょ、好みのタイプだわ。こんな方に写真撮られたら照れた顔に写っちゃうわね、ふふふ」
と、いきなり初対面の取材陣も満面の笑顔にしてしまう陽子先生。この日はずっとこんなふうに笑っていた気がする。
「笑う門には福来たる、ですからね。とにかく口角を上げて、笑顔でいたらいいのよ。笑いは心と身体の免疫力もアップしてくれますからね」
大きなメガネとマンダリンオレンジの髪、赤いターバンがトレードマークの陽子先生は、御年84歳。しなやかな身のこなし、手際のよい動き。うかうかとしているとこちらが置いて行かれそうである。…心して、インタビューにかかる。
はじまりは、せまい社宅の小さなキッチン
陽子先生は東京都の出身。20代のころは会社員である夫の転勤で日本全国を転々として暮らしていたという。
「京都でしょ、北九州でしょ、東京に戻ってからは三鷹・吉祥寺・武蔵小金井と、20回以上は引っ越しをしたわね。当時…といっても50年くらい前の話だけど、社宅はどこも狭くてね。電話だって通じていない。時間を決めて公衆電話に駆けていって、やっと話ができたんですからね。電話を持ち歩くなんて想像もできなかったころの話ですよ」
陽子先生が料理の世界でキャリアをスタートさせたのは1970年代。ご近所さんへのお裾分けがきっかけで料理上手が知られるようになり、同じ社宅の人たちにお料理を教えはじめたのだという。
「社宅だからね、みなさん好きな家に住んでいたわけじゃないでしょ。せめてテーブルの上だけはおしゃれにしようって、お料理といっしょに食卓の環境を整えたんです」
散歩に出た際に見つけた小さな石や、紅葉の葉っぱ。これを箸置きや装飾に見立てて、テーブルを彩る。小さな食卓に広がりを演出する陽子先生のテーブルコーディネート術はたちまち評判となり、次から次へと教えてほしいという人があらわれた。
そのうちに、せまい社宅ではまかないきれなくなり、武蔵小金井に一軒家を購入。そこで本格的に教室を開くこととなった。
「みなさんの要望に応えていったら、だんだんと規模が大きくなっていったんです。口コミでみなさんが広げてくださってね」
広告やテレビの撮影現場で活躍するようになったきっかけも、口コミによるという。
ある日、飲料メーカーの重役にお中元として贈るお菓子をつくってほしいという友人からのリクエストに、マドレーヌやシュークリームをつくって応えた陽子先生。このお菓子を食べた重役の妻が「このおいしいお菓子はいったい誰が?」と探しあてたのが陽子先生だった。すぐに飲料メーカーから広告の仕事で声がかかった。
いまでこそ当たり前となっているが、編集者が食卓まわりのビジュアルも担当していた当時、料理の専門家に雑誌や広告の仕事を依頼するのは業界的にもほとんど類を見ない試みだったという。そしてこの仕事こそが、世の中に「フードコーディネーター」という肩書きが生まれるきっかけとなったのだ。
「目の前のことを一生懸命やるしかないのよね。でも、最初からうまくいっていたわけじゃないんですよ。当初は『“フードコーディねえちゃん”に払うお金はない』なんて言われて、ギャラをいただけないことだってありました。だけど、わかってくれる人もたくさんいたのよね。わたしを信頼してくれる人たちに支えられながら、ときに世の中の声と闘いながらやってきました」
当時の広告や雑誌に使われていた料理は、撮影用に見た目ばかりを整えたもの。料理をうつくしく表現、演出するために、味は二の次で実際に食べることまでは考えられていなかった。
片や、本物の「おいしい」にもこだわる陽子先生のフードコーディネート。
「おいしくない料理は、いくら見た目を整えてもすぐにバレます。カメラマンや現場の人たちが『おいしそう、食べてみたいな』って思えるものにしないと、写真を見た人も食べたいという気持ちは起きませんから」
いつしか、陽子先生のことを「フードコーディねえちゃん」なんて言う人はいなくなっていた。
気が弱いからこそ、決断はすばやく
「みんなが飽きないことをしなきゃと思って」と笑う陽子先生。フードコーディネートの仕事が軌道に乗りはじめてからも、常に新しいことに挑戦しつづけてきた。
武蔵小金井ではじめた料理教室が大人気になるなか、同時にケーキや製菓器具、材料を販売する「ケーキハウス」の店舗経営をスタート。ケーキづくりの材料を計ってセット販売したり、小麦粉の大袋を店で預かり好きなときに取りに来られるようにする「小麦粉キープ」なるサービスを展開したり、アイデアは止まらなかった。
「わたしは呑んべえだから、『小麦粉キープ』は飲みに出ていたときボトルキープから着想を得たの。小麦粉の補充に来たついでに、ほかのものも買ってくれるでしょ。商売のおもしろさに気づいたのもこのころね」
陽子先生の画期的なアイデアのおかげで、ケーキハウスと料理教室は大繁盛。地元の人だけでなく、北海道や沖縄など遠方からもお客さんがくるほどだったという。
そんなおりに、今では多くの著書を持ち、「祐成陽子クッキングアートセミナー」のメイン講師も務める娘の祐成二葉さんが、5年間のヨーロッパ留学から帰国。陽子先生はいっしょにケーキハウスの運営をしようと誘った。
「でも二葉は『料理だけじゃなくて、コーディネートの仕事もしたい』って言うんです。海外で学んできた、食卓やインテリアのコーディネートがしたいって。生徒さんからも、食卓の演出を習いたいという声も上がっていたし、じゃあもう料理もテーブルコーディネートもいっしょに学べる場所をつくっちゃおうと思いついたの」
このことがきっかけとなり、陽子先生は日本で初となるフードコーディネーター養成スクールを開校。陽子先生、48歳のときのこと。
陽子先生のこれまでの経験に、二葉さんがヨーロッパ留学で学んできたことが組み合わさり、より実践的に食にまつわるノウハウが学べるとあって、スクールは安定したスタートを切った。
しかし、フードコーディネートの講座も軌道に乗ってきたある日。とあるテレビ局のディレクターから「先生の仕事は見事だけれど、武蔵小金井から来てもらうと時間もコストもかかり過ぎる」と言われてしまう。そんなことを言われてもお店もスクールも順調で、家のローンもまだまだ残っている。普通であればテレビの仕事を諦めることも考えるだろうが、陽子先生はなんとこれを機に、東京・四谷への引っ越しを即決した。
「生徒さんのこともありましたからね。北海道とか沖縄からはるばる来てくれる方もいたので、すこしでも来やすいほうがいいでしょう?」
移転後も周囲の心配を吹き飛ばす勢いで生徒は増え続け、気づくとフードコーディネートの教室だけで四谷の新宿通りにあるビルを3箇所も借りていたという。
「年間家賃だけで約1000万円は払っていましたね。あのときは払えていたのよ。だけどあるとき、こんなことがいつまでも続くわけないって思ったの。いつでも謙虚な気持ちを持っていなければ……ね」
最盛期に3軒のビルは撤収。小さな一軒家を新たな拠点とし、定員オーバーの場合は空くまで待ってもらう、という体制にシフトした。おかげで教室は3〜4年待ちの人気が続いたという。
「学生時代、わたしテニスの選手だったの。東京都の中ではかなり強かったのよ。1位をとったこともあるくらい。だけど全日本に出てみたら、上には上がいて8位になりました。最初のサーブは勢いでいけるんだけど、それが外れた時のセカンドサーブが入らないのよね。そのときに、もう後がないし失敗したらどうしようっておじけづいている自分に気がついたの。今もそうだけど本当は気が弱くって、追い詰められるとぐらつく自分の性格を思い知りました。
今思えばわたしよりうまい人たちは、もっともっと練習していたし、準備をしていたのよね。当時のわたしは、そのがんばりも足らなかった。高校2年のときでしたね。そのときから、追い詰められると弱いんだからやる前にきちんと準備はして。弱気になる前にさっさと決断して行動しようって思ったんです」
これこそが、早めのタイミングで決断をする陽子先生のスタイルの源だ。大胆な人柄や経歴から、恐れ知らずな勢いでスクールを成功に導いたのかと思っていたが、実際はそうではなかった。挫折の味を忘れずに、誰よりも慎重に、そして早くことを進めてきたから、今があるのだ。
「だからね、一か八かなんて勝負はしませんよ。信じてついてきてくれている生徒さんやスタッフさんたちを裏切るわけにいかないじゃない? それにわたし、『みんなの笑顔のため』なんてことは絶対言わないの。目標を設定して、それを達成するための道筋をしっかり考える。確かな計画のもとで儲けを出せば、それはあとからついてきて、みんなでいっしょに笑っていられるんだから」
分かち合うから人が集まる
陽子先生の数多の功績のうち、忘れてはならないのがキッチン用具の開発だ。
2011年、包丁もまな板も使わない、刃が曲がったキッチンバサミを開発し、これが大ヒット商品となる。今でこそキッチンバサミがもちろん、文房具でも刃が曲がったハサミを見かけるようになったが、まさにこのスタイルのハサミを発明したのが陽子先生なんだとか。しかし陽子先生はもともとグッズ開発の専門知識があったわけでもない。いったい何を見てこのような大ヒット商品を生み出したのだろうか。
「野菜を切ろうと思って、包丁とまな板を取り出そうとしたときにね、立ててあったまな板が倒れてお気に入りのお茶碗が割れちゃったの。こういうときのやるせなさって、台所に立つ人でないとわからない。もうその瞬間、なにもかも嫌になっちゃう。それで、まな板を使わずに料理するには……って一生懸命考えました。発明は不便から生まれるんです」
刃がカーブしているから、ヌルヌルした肉でもトマトでもしっかりホールドしてカタチを崩さずに切ることができる。なるほどこれなら、まな板が倒れてたいせつな食器が割れることもない。ほかにも、手に装着してなでるだけでキャベツの千切りができるピーラーや、先端にトングをつけたキッチンバサミなど、数々の便利グッズを発明してきた陽子先生。ここでふと真顔になり「…そうそう、それとねケチは絶対だめよ」と重ねる。
「すてきなことを思いついたら、ひとりで抱え込んではだめだと思うの。みんなでどんどん分け合うことね。人に対してケチをしていると、人は逃げていってしまいます。逆に気前よくしていると、人が人を呼んで思わぬものがもたらされる。だから私は、アイデアも儲けも出し惜しみせずにどんどん手放すようにしています」
みなさんのいずれ行く道照らします
人生経験豊富で、ひとたび聞けば人生を軽やかに歩んでいく秘訣が次々と出てくる陽子先生。生徒や友人から悩み相談を受けることも少なくないそうだ。ここで話は、今回の取材の舞台「糀カフェ2539」へとつながってくる。
「カフェをつくるのは4回目。わたし、カフェが大好きなの。相談に乗ってくださいって生徒さんに言われたときに、わざわざ時間と場所を決めなくても、わたしがここに居れば、カフェにお茶をしに来ておしゃべりすることができるじゃない?『場』がないと、ただの社交辞令で終わってしまう。約束をちゃんと果たせるのが、カフェのいいところ。ただし儲からないから、これは趣味と思うことにしていますけどね」
生徒さんからの相談内容は、仕事や恋愛、はては服選びまで本当に多種多様。
「料理だけじゃなくて、結婚も服も、メガネ選びも、なんでも相談に乗るわよ」
そうやって軽やかに笑う陽子先生と話していると、取材中でも思わず自分の悩みを打ち明けてしまいそうになる。「ここにくればいつでも先生に会える」そう思うだけでも、心と体がスッと軽くなった気がした。
カフェがあるのは四谷本塩町。麹町とも隣接しているこのあたりでは、その名の通りかつて糀作りが行われていたという。この場所はまさに「発酵」をテーマにしたカフェにふさわしい立地なのだ。せっかくなので陽子先生考案のお料理を味わいたいと、看板メニューのランチプレートをいただくことにした。
〈当日のメニュー〉
・鶏肉のコンフィ ロシアンサラダ黒糀添え
・大根と糀のあんかけスープ
取材が年末だったこともあり、この日のメニューはクリスマスとお正月が合わさったスペシャルプレート。もれなくレシピもついていて、陽子先生の言う「出し惜しみをしない」はこれなんだな、と実感する。
気になるお味は……と考えるまもなく本当にあっという間にお腹の中におさまってしまったのだが、これまで出合ったいわゆる発酵食品とは何かが異なる。酸味や香りが目立ちすぎることもなく自然に食材と馴染み、口にするたびやさしい味付けと滋養が身体に染み入ってくる。
「そうだった、肝心のフードコーディネートのお話してなかったわね。目で『おいしい』を伝えるためには、このお皿でわかるように、メインが6、添えが3、飾りやソースといったひかえが1っていう割合で盛りつけるとバランスがいいのよ。
職人の世界では『見て盗め』なんて言葉もあるけど、私のやり方はそうじゃないの。全部に式があるのよ。その式さえちゃんと学べば、誰でもおいしそうに盛りつけることができます。センスはつくるものなのよ」
そう言って、またにこやかに笑う陽子先生。社宅のお料理教室からはじまって、フードコーディネーターという仕事をこの世に見いだし、それを実践的に教えるために0から式を組み立ててきた。歩むべき道は最初から見えていたのだろうか?
「いいえ、私はいつだって今がすべてなの。先のことを考えすぎてもしょうがないし、過去の自分はまだ途中でしょ? だからぜんぜん昔のことも振り返らないの。
最近の私のテーマは、『みなさんのいずれ行く道照らします』。60歳も70歳も80歳も、誰もがいつかは通る道。みなさんが今を見つめていられるよう、私が真っ直ぐ前を向いて、先陣を切って照らしているのよ」
今日お話を聞くまで、陽子先生がたくさんの方に慕われ、相談相手として頼りにされているのは、力強い生き方や悩みも笑い飛ばしてしまうような自信たっぷりの姿にみんなが惹かれているからだと思っていた。でも本当の陽子先生は、気が弱くて追い詰められればおじけづいてしまう性格。それでも今だけを見つめて、慎重に足元を照らしながら歩いてきた。その後ろ姿にたくさんの笑顔がついてきたのだ。
先生に見送られながら、お店をあとにする。明日も陽子先生はカウンターに腰かけて、訪れる人たちの話を前のめりで聞いているのだろう。そんな光景を想像するだけで自然と笑みがこぼれる。相談帰りの生徒さんの気持ちもこんな感じかもしれない。
陽子先生にならえばきっと、自分にぴったりな道を見つけるには、目の前にある今をたいせつに、一歩ずつ踏みしめていくのがいちばんの近道なのだ。さっき食べた麹のおかげか先生のパワーか、足どりはとても軽い。
【プロフィール】
祐成陽子(すけなり ようこ)
1939年生まれ。祐成陽子クッキングアートセミナー校長。食べること、つくることへの月が高じて、1965年に主婦の経験を生かし料理教室を始める。1976年には料理・ケーキ等の道具や材料の専門店を開業。3年後にはカフェもオープン、新鮮な材料を常に用意するための工夫、料理、ケーキ作り相談、カフェ開業講座等の画期的経営手法が各方面のメディアで話題を呼び、店舗経営コンサルティング、商品開発、メニュー開発等でも活躍。また1988年に日本で始めてのフードコーディネーター養成校を設立。現在は料理家として、校長として、多岐に渡り活躍中。