アート好きじゃない盲人が美術鑑賞へおもむく理由
白鳥さんが「アート好きじゃない」のは本当らしい。しかし、そうだと言うのなら、美術鑑賞にはまり、今日まで続けているのはどうしてなのか。美術鑑賞じゃなくても「盲人らしくない」アクションはあるし、人との会話を楽しめる場もたくさん存在するにも関わらず、だ。
白鳥さんが美術鑑賞に求めているものはなんなのだろう。
「それはきっと、“自由さ”なんじゃないですかね。自由っていうのは、作品の自由さでもあるだろうし、鑑賞方法の自由さでもあると思う。もともとアートには既存の価値観に挑戦する意味合いを持つ作品も多いから、価値観への自由さでもある」
すこし悩む表情を見せながら、静かに語る白鳥さんの言葉には、20年間の熟慮が色濃くあらわれていた。言葉の意味が身体へ染み込むのを待つように、白鳥さんはゆっくりとくり返した。
「うん。きっと俺は、自由さを求めているんだと思う」
これまでに見てきた美術展の中で一番印象に残っている作品は、と尋ねると、即座に「それは2002年に水戸芸術館で見たクロード・レヴェックだね」と答えてくれた。
「これがもう、最高」
白鳥さんはにやりとした笑みを浮かべ、その魅力を語りはじめる。
「クロード・レヴェックはもともとネオン管を使った作品を作る人なんだけども、そのインスタレーション(空間展示)では、ものがほとんど置いてなかったんです。水戸芸術館の展示室は、それなりに広い空間なんだけどね。
展示室内に『これは○○だ』とわかるものがひとつもなかったから、人によっては2分で出てきちゃうような展示だった。一方で『なんだかわからない、だから何回も見に行っちゃう』って人もいて。なにか意味があるはずなのに、誰にも説明できない感じがすごく良かったんだよね」
白鳥さんは「よくわからない」作品を好む。誰も説明ができない「不思議さ」を心からおもしろがっているのだ。
なににも捕まえられることのない“自由さ”との出会いが、白鳥さんを美術鑑賞に惹きつける。
人は、なにを見ているのか。
独自の美術鑑賞をしながら、白鳥さんが考え続けてきたことがある。それは、「見る」ことについて。
「目が見える人はなにが見えていて、視覚障害のある自分はなにが見えていないんだろう。なにを見ていないことになっているんだろうって」
白鳥さんは、たまに語尾が上がる独特のイントネーションで、マイペースに言葉をこぼしていく。
「俺はアートを見ることじゃなくて、美術鑑賞の全てを楽しんでいるんだと言ったけど、これは“見る”っていう行為に置き換えても、通ずる部分があるんじゃないかなと思っているんだよね。
どんな行為における“見る”を切り取ったとしても、視覚だけで成立していることなんてあんまりないと思うんです。必ず他の感覚とも結びついているはずだから。
たとえばなにかを“見て”いるとき、同時に耳で音をとらえているかもしれないし、手でものを触っているかもしれないし、身体が動いているかもしれないでしょう」
「見る」という感覚にこんなにも真剣に向き合ったことがないせいで、白鳥さんの見解にその場にいる誰もうまく返答ができない。そんな自分たちの中に、無自覚の偏見の影を感じ、ドキリと心臓が縮む。
「単独での美術鑑賞をはじめてすぐの頃、ある印象派の展覧会に行ったんです。男性のスタッフと一緒に鑑賞していたんですが、一枚の絵を前にして彼は『これは湖が描かれた絵ですね』と説明してくれました。でも、しばらくしてから『すみません、黄色の点々が描かれているから、もしかしたら原っぱかもしれないです』って言われて(笑)。彼は目が見えている人で、しかも美術に興味がある。それでも、全てがわかるわけじゃないんだな、と思いました。
もちろんそれまでも知識としては、目が見えていても全員が器用なわけじゃないし、その時々の集中力によってなにかを見逃すこともあるって知っていたんだけど、『人によって見えているものは違う』という当たり前のことを突きつけられた出来事でしたね」
この出来事を経て、白鳥さんの中の疑問はさらに大きくなっていく。人はなにを“見て”いるのか——。そこには視覚障害の有無だけでは説明できない要素があるようだった。しだいに日常生活でも、同じ疑問が浮かぶ場面に気が付くようになる。
「2008年から10年間くらい、水戸でマッサージ屋さんをやっていたんですよ。『そんなに宣伝しなくてもいいや』と思っていたから、黒板にカッティングシートを貼っただけのちゃちな看板しか出していなくて。開店後すぐに看板を見つけて来てくれた人もいたんだけど、『毎日通る道なのに、最近気付いたんだよね』って、はじめてから3年後に来た人もいた。そういう人は『もっと目立つ看板作ったら』なんて言ってくれるんだけど(笑)。
これは人それぞれの“目の使い方”が違うってことなんだよね、きっと。つまり、見えてる人がなにを見るか、なにを見落とすかには、その人の生活パターンや価値観、いろんなことが影響するんだな、と思った」
そうして白鳥さんの中に、ひとつの暫定解が浮かぶ。
「そう考えると、見えてる人と見えてない人との差って、たいしたことないんじゃないかなって思うようになったんです」
見える人とそうでない人の「差」。白鳥さんの言葉に思いを巡らせながら、あの旧校舎で、ワークショップに参加した人たちの声を思い出す。
“見ず知らずの人と思ったことをしゃべりながら作品を『見る』って、なんか不思議な体験でした”
“ひとりだったら素通りしちゃうような作品も、じっくり見てみると気付きがあったり、意外とおもしろいなって思えたり。誰かと『見る』のって楽しいなと思いました”
彼らは、白鳥さんが案内する旅によって心を解き合い、白鳥さんと一緒にその時間を楽しんでいた。そして「見る」という言葉を自然に使い、「見る」という行為を共有していた。
白鳥さんはゆっくりと続ける。その穏やかな表情には、過去の自分を鼓舞するような爽やかさもあった。
「美術鑑賞を続けてきたことで、自分の中で徐々に、見える見えないの垣根がなくなっていました。ちょっとした興味からはじめた活動だったのに、すごく大きな拾いものをしたなと思います」
【プロフィール】
白鳥建二(しらとり・けんじ)1969年千葉県生まれ。美術鑑賞者、写真家。生まれつき強度の弱視で、12歳の頃には光がわかる程度になり、20代半ばで全盲になる。その頃から様々な人と会話しながら美術鑑賞をする独自の活動をはじめる。2005年からデジカメで写真を撮るようになり、撮りためた写真は40万枚を超える。水戸芸術館現代美術センターをはじめ、いくつもの場所で講演やワークショップのナビゲーターを務めている。白鳥さんとの美術鑑賞を題材に、ノンフィクション作家川内有緒氏が執筆した『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』(集英社インターナショナル)が発売中。note@shiratorikenji