プライドを持って「わからない」と言う

——Rayさんは、移民としてアメリカで暮らす日本人のご両親のもとに生まれ、アメリカと日本、両方の文化を経験しながら育ってきたと伺っています。今日は、そんなRayさんならではの視点でお話をお聴きできたらありがたいです。

ありがとうございます。よろしくお願いします。

——今回の特集は「やさしく疑う」がテーマ。いろんな方に情報との接し方を聞いています。Rayさんはふだん、どのように情報を集め、取捨選択されていますか? 自分なりの習慣・傾向などはありますか?

そういう意味ではふつうと言いますか、特別なことはしていません。ニュースを毎日見て、本もよく読んでというのが基本です。SNSも見ます。強いて傾向を言うなら、政治的・社会的な問題について、意識的に調べ、考えるようにしている点でしょうか。

Rayさんの作品

——日本ではここ10年ほど、特に政治的・社会的な問題に対して、一個人の意見や思想に支持が集まっているのを見る機会が増えました。これは、SNSの普及による影響が大きいと感じていますが、アメリカでもそういった雰囲気はありますか?

めちゃくちゃあります。あくまで僕から見た印象でお話をしますが、アメリカのSNSでも、個人の発言をきっかけに炎上が起きるなんてことはしょっちゅうです。声の大きいマイノリティ、英語では“vocal minority(ボーカルマイノリティ)”と言いますが、彼らは過激かつ積極的に発信をするし支持も集まるので、あたかもその意見がメジャーであるかのように見えてしまうんですよね。でも実際は、それが本当にみんなの意見というわけではなくて。

——“noisy minority(ノイジーマイノリティ)”という言い方もしますよね。声が大きい少数派。

そうです。さらにアメリカでは「意見を言わないと考えていない」とされる感覚があって。傍観者でいることが許されないと言いますか。僕はその雰囲気が苦手だったりもします。だって、まだ意見がまとまっていない状態で表面的なことだけを言うのは良くないと考えているから。

社会を揺るがすような大きな事件や運動が起こったとき「ある程度フォロワーがいるんだから、何か言った方がいいんじゃない?」ってたまに周りの人に言われるんです。でも、僕自身はまだ考え中だし、もっとリサーチしたいし、きちんと理解した上で発言したい。そうすることが説得力にも繋がると思っているので、態度を保留することがよくあります。

『サラリーマンはなぜサーフボードを抱えるのか』真崎嶺

——たしかに、「発言しないと考えていない」とされる風潮は、最近の日本にもあるなと感じます。言及していない人に「逃げている」と攻撃したり、発言を強要したり……。Rayさんは著書『サラリーマンはなぜサーフボードを抱えるのか』で、互いに学び合える議論をすることが重要だとおっしゃっていましたが、ご自身が議論するときに気を付けていることはありますか?

一人ひとりが持つ価値観や意見には、いろいろなコンテクストがあるわけですよね。その視点から見ると、誰かのせいとか、どの文化が間違っているという問題ではないことがわかります。だから、実際に議論するときには誰かが正しいというスタンスではなく、「どうやってこの意見にたどり着いたのだろう」とまず想像して理解することが効果的なのかなと。もちろん、理解はできても納得できないこともあるので…….難しいですけどね。

あとは、わからないときはプライドを持ってそれを明らかにする、“I don’t know”と言うことも大切にしています。わからないと伝えるのも一つの大事な結論だと思っていますね。

権威が示す“正解”が、独自の文化や個性をつぶしてしまう

——今回の特集のテーマは「やさしく疑う」ですが、Rayさんはまさに、自分の中に生じた違和感をもとに世の中の当たり前を疑い、自分らしい形で発信してきた方だと思います。疑問を投げかける対象が権威ある人・ものであるとき、意見することにハードルを感じたりはしませんか?

権威を持つ人に意見を言うのは、方法を含めていろいろと配慮が必要だと思います。ただ「あの人はすごい人だから正しい」と安易に信じてしまうのはよくない。実績のある人、長く生きている人が正解を言うとは限りませんし、逆に言えば、若い世代の人だからといって、未来に向けた正しい判断ができるとも限りません。

だから、相手が誰であれ疑問に思ったときは、その人に権威があろうとなかろうと、きちんと意見を言わなければ無責任だなと考えていて。自分に近い領域だったらなおさらですね。僕はデザイン業界に対しても、めちゃくちゃクリティカル(批判的)に見るようにしています。

たとえば、有名なデザイン事務所で働いているとか、このデザイナーと知り合いだとか、業界内で評価されるような何かしらの経験やコネクションがないと、大きな仕事をもらえなかったりする。こうした判断をする決定権を持つ人をアメリカでは“gate keeper(ゲートキーパー)”と言いますが、彼らのコントロール下にある人しか門に入れないという感覚が、日本では特に強いなと感じたり。

——経験やコネクションが重視される、というのはなんとなくイメージできる気がします。

デザイン業界には、さまざまなコンペティションやアワードがあります。若手発掘やデザイナーの地位向上に一役かっていることはもちろんすばらしいことなのですが、僕自身はそもそも誰かがデザインを「評価する」ということ自体、疑問に思う部分もあるんです。それは、何を「良いデザイン」とするのかは、きっちりとした枠の中で定義できるものではないと考えているから。

著書でも書きましたが、たとえば2014年の「ADC Young Guns」(30歳以下のクリエイターを対象とした国際賞)では、実力主義かつ匿名という体裁で審査が行われました。

ですが、実際には前回の受賞者が次の審査員になる身内びいきなプロセスや、参加に費用がかかるなど、デザイン団体やコンペティションにおいて暗黙のエリート主義があること。そしてグローバルの賞でありながら、デザイン大国であるヨーロッパやアメリカによって規定された「良いデザイン」の基準に沿って審査がなされていること。そうした実態から、白人男性へ有利になるような根深いバイアスの存在が明らかになっています。

コンペやアワードにおける男性優位的な構造は日本でも見られます。比較的最近発刊されたデザインの専門誌でも、トップクリエイターとして取り上げられたデザイナー全員が男性だったり。

もちろん、専門性を持って正確に評価できる人もいれば、仕事に繋げるために賞を必要としている人がいることも理解しています。

そういう構造を踏まえたうえで、権威あるものに対してただ盲目的に受け入れるのではなく、誰が何の目的でその賞を作ったのか、疑問を持ち、理解を深めていくことがすごく大事なんじゃないかなと思うんです。

——この件に限らず、今自分の置かれている状況があまりに当たり前で、そこに疑問を抱くこともない人たちも多いのかなと思います。そのことに気づくにはどうしたらいいんでしょう。

そういう人たちが、まさに「マジョリティ」ですよね。正直、僕にもまだわからない。だからこそ、彼らが疑問を持つきっかけをつくりたくて、僕は研究や執筆をしているんだと思います。テキストを書くときに一番意識しているのは、アクセシビリティですね。より幅広い人に読んでもらうために、なるべく誰でも理解できるように書いているつもりです。

大事なのは、自分の幸せに繋がるかどうか

——著書の中で、目立たないことを良しとして大衆に従う日本社会の集団主義文化や、“恥”のカルチャーについても言及されています。当たり前を疑うためには、これまでに根付いてきた価値観から脱却していく必要があると改めて感じました。

そうですね。日本の同質性を重視する考え方は、特に政治的・社会的な問題における議論を生みづらくし、何の疑問を抱くこともなく大衆に従うメンタリティを醸成してしまう側面があると思います。ただ、集団主義の全てが悪いわけではなくて、僕自身も日本の空気を読む文化が好ましいと感じる場面もあります。

たとえば友達と居酒屋に行ったときに、日本だとその場にいる人がどうすれば一番リラックスするかをみんなが意識して行動しているなと感じていて。それがアメリカだと、まずは自分の気持ちを優先する印象。どちらも大事だと思うし、日本人は自分を追い出しすぎて、むしろもうちょっと自分自身のことを考えてほしい気持ちもあるんですけど(笑)。そういう周りへの気遣いに関しては、日本で暮らしてから僕自身も日々意識するようになったところだなと感じています。

——なるほど、それは両方の文化を知るRayさんならではの視点ですね。今お仕事でやっていること以外に、これから新たに取り組んでみたいことはありますか?

そういえば最近、バーモント美術大学の大学院を卒業したんですが、そのときに「デザイン業界の中での燃え尽き症候群」についてリサーチして卒論を書いたんです。これは、さっき話していたことにも繋がると思っていて、デザイナーの多くはパーフェクトを目指しているけれど、そのパーフェクトの基準も誰が作ったのかも、結構曖昧だよね、と。

権威ある賞を獲ることが人生の目的の人、自分のアイデンティティの中心に置く人もいると思うし、そこから得るものもきっとあるけれど、いざ達成したときに人生が大きく変わるかといったら別じゃないですか。人生を懸けて追い求めたものが、実際には自分の幸せに繋がっていなかったときに「今まで頑張ったのは何だったんだろう……」と燃え尽きてしまうケースが多いんじゃないかなと思って。

——すごく興味深いです。

デザイン業界において権威ある賞の基準や目的を疑うことも大事だし、めちゃくちゃ努力してその賞を獲ることが本当に自分の幸せに繋がることなのか、価値観を改めて見直す必要があると思います。僕自身は、今の時点では仕事にハピネスを求めるよりも、最近腰周りが痛いからそれを治すとか、料理が上手くなるとかの方が、人生の楽しさを満たしてるのかなって。

このトピックは、日本人にもきっと共感してもらえると思うから、できれば今完成している卒論をもう少し発展させたうえで、日本語訳もしてまた出版できたら嬉しいです。

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自分の中に生じた違和感をいいかげんに扱わず、世の中の当たり前を素直に疑い、自分の考えを言葉にするRayさん。

その姿はとても誠実で、一つひとつ丁寧に疑うことを通して、ご自身の価値観や大切にしたいものを確かめているようにも感じました。

当たり前を疑うことが、自分を知ることにも繋がる。そんな新しい気づきをもらう取材でもあったなと思います。

同席された編集長・草野さんもこんなコメントを寄せてくれました。

「インタビューして強く共感したのは『わからないと言っていい』という言葉。社会的に議論されていることに対して必ず意見表明をしないといけないプレッシャーはわたしも感じていたところなので、少し気持ちを楽にして、自分のペースで向き合っていきたいなと思いました」