タイプライター、カーディガン、あるいは岸田奈美

壁という苦難がなければ、この世に生まれなかったものがある。

タイプライター、カーディガン、電話、ストロー、ライター……。

もし、わたしの人生に、壁がなかったとしたら。
どんな風になっていただろうか。今より幸せでいられただろうか。




父を突然、亡くしてしまわなければ。

今ごろわたしのそばには、心を許せる友だちがたくさんいたかもしれない。ふわっと集まって、お酒を飲んで、さみしさを味わわずとも紛らわしてくれるような。こんな風にメチャンポンな生き恥をインターネットで大公開しながら生きなくとも済むよう、存分に耳を傾けてくれるような。

当時14歳だったわたしのまわりに、元気だったはずの親がいきなり倒れ、二週間も意識不明のまま事切れ、しかも最期の会話は図らずも「オトンなんか大嫌いや」というケンカ腰で……という話を、ええ感じに受け止めてくれるタフなティーンエイジャーはいなかった。

本当はいたかもしれないけど、ろくに話していないのでわからない。気をつかわれるのも、気をつかうのも、いやだった。だったらシレッと平気な顔をしてたらよかったんだけど。父に聞きたかったことも、伝えたかったことも、数えきれないほどあったのに、よりにもよって言わなくていいことだけを言ってしまったことへの悲しさ、悔しさ、情けなさで満たされてしまい、教室の椅子にぼんやり座ってるだけで、いっぱいいっぱいだった。ちょっとでも気を抜くと泣いてしまう。

友だちと話すことから逃げまくり、学校を卒業すると、誰とも連絡をとらなくなった。それはそれで、さみしいのだ。

そんなわたしの目についたのは、父が遺してくれたiMacだった。

眠れない深夜に、iMacで『2ちゃんねる』という掲示板をひらいて、スレッドを立ち上げた。誰にも言えない、父のことを書いた。書いては消し、書いては消し、後悔とか、謝罪とか、思い出とか、誰にも言えなかったことを、シッチャカメッチャカに投稿した。真っ暗なリビングのiMacの前では、涙と鼻水は思う存分、流しっぱなしでよかった。

すると、ポツ、ポツ、と書き込みがあった。

「>>1 読んでるよ」
「大変すぎワロタ」
「イ㌔」

画面の向こうにいる一人ぼっちが、答えてくれたのだ。名前も知らない、顔も見えない、無関係で、無責任な呼応が、光のように差し込んできた。どうしようもなく救われてしまい、やっと気づいた。

わたしは、誰かに励ましてもらいたかったわけでも、泣いてもらいたかったわけでもない。わたしの奥底にあるしんどすぎる感情を、言葉にしたかった。父への愛を語りたかったのだ。そのために、聞いてくれる相手がほしかった。

これが近すぎる相手だと、生々しく悲惨すぎてうまくいかない。

深い悲しみに落ちたとき、語る相手は遠ければ遠いほど、悲劇は喜劇に、マズい話はオイシい話になるというのが、わたしの発明だった。



母が歩けなくなるような病気にかからなければ。

わたしはもっとノンビリして、気まぐれでおだやかな日々を謳歌していたかもしれない。母とフラッと街へ繰り出しては、通りがかりのおしゃれなカフェに寄って。歩き疲れたからこのまま温泉にでも行っちゃうかって。ノープランで。

車いすに乗るようになった母とは、とにかく移動に苦労した。

勝手知ったるはずの神戸の街が、わたしと母のティータイムを阻む。歩いていたときはまったく気にも留めなかった段差を、車いすで越えられない。真夏にカフェを20件まわって、母と入れるお店がやっと1件見つかるなんてのは、ざらだ。

最初はなにをするにも手助けがいるので、母はいつも「ごめんなさい」「すみません」と、しょんぼりしながら誰かに謝っていた。かつおぶしみたいに心が削れてゆく母を見るのは、つらかった。

だから、良さげなお店を見つけたら、とにかく調べまくった。

公式サイト、航空写真、口コミ、SNS投稿、ありとあらゆる情報を集め、車いすでニュルンッとスムーズに入れることを確認し続けた。今なら二十秒もあれば、近くの多目的トイレとタクシー乗り場の場所も把握できる。

オリンピックに『検索』という種目があれば、わたしは日本代表を狙えるのではないか。

もちろん、どれだけ調べたとしても、どうにもならないことはある。道路脇の溝に、車いすのタイヤがはまり、立ち往生したこともあった。ダンプカーでも通れば、お陀仏になる。

そういう時はなりふり構わず「助けてェッ」と、手を振って言えるようになった。あれだけ調べたんだから、いっそ頼ってしまうという前向きな諦めがつくのだ。

突発的な問題にさしあたったとき、まともに立ち止まって打ちのめされると、心が折れてしまうことを、わたしと母は知っている。とにかく爆速で調べて、爆速で手を打つのだ。不確かな後先は考えず、いま、楽しいと思える方へ。止まったらだめだ。動いてさえいれば、方向転換はできるし、助けてくれる人たちにも出会えるというのが、わたしの発明だった。



弟がダウン症で、生まれてこなければ。

弟のことなんかほとんど考えず、ヘタしたら一週間のなかで一度も名前を思い出さないかもしれない。大雑把な姉と、几帳面な弟は、できるだけ干渉しない方が平和なのだ。家の面倒ごとや手続きだけは、きみの方が向いてるからと、弟に押しつけて。怒りや悲しみを抱く回数も、今よりもっともっと、少なかっただろう。

弟が自分の意思をうまく話せないのも、わたしがその意思をうまく汲み取ってあげられないのも、つらかった。

弟よりずっと年下の子どもたちから、マンションのガラスにボールを当てて割った罪をなすりつけられたのに、言い訳もできず、顔を真っ赤にして、目に涙をためて、悔しそうに呻きながら帰ってくる彼を見たときは、胸が焼け落ちそうだった。

「大きな声をだす人が怖いので、作業所に行きたくありません」

たったこれだけのことを言っているのだとわかるまで、何ヶ月もかかった。そのあいだ弟は、ずっと不安そうにしていたのに。もどかしくて仕方がない。

ただ、言葉がすべてではないと、教えてくれたのも弟だった。

なにを言っているかではなく、なんで言っているのかを、じっと見つめれば、その人とつながれるという発明だ。不完全な言葉にまどわされず、表情を、仕草を、本当の感情を。

知らない人から飛んでくる、チクチクした言葉のいくつかが「助けて」に聞こえたとき、わたしに見えていた世界は途端に奥行きと輝きを増した。



眼鏡のような、方位磁針のような、十徳ナイフのような発明が、心には備わって。かくしてわたしは、どんな不運が押し寄せようともひるまず、ビュンビュンと歩き続け、オイシイと開きなおり、思うがままに書き散らしては、優しい人に出会える岸田奈美になったのだ。

叶うことなら、父に会いたい。母に歩いてほしい。かつての苦難を歓迎することは決してできない。

でもわたしは今だって、幸せだ。扉があるからじゃない。大切な誰かと自分のために、壁を扉に変えられた過去そのものが、幸せをくれるのだ。

タイプライターを発明したのは、ペッレグリーノ・トゥーリ。視力を失いつつあり、文字が書けなくなった恋人と、彼はどうしても文通をしたかった。

カーディガンを発明したのは、ジェイムズ・ブルデネル。クリミア戦争で突撃を指示し、負傷した部下たちに暖をとらせたかった。

電話を発明したのは、グラハム・ベル。耳が聞こえづらい奥さんが会話に苦労しないよう、音を信号に変えようとした。

彼らはたぶん、世界を変えようとしたわけじゃない。

ただ、すぐそばにいる、愛しい人だけを見ていた。愛しい人を苦しめる壁を見ていた。壁は、その人の前だけに、無情に重たく立ちはだかる。どんなに愛していたとしても、代わりに壊してあげることも、乗り越えてあげることもできない。

わたしが父の代わりに生きてあげることも、母の代わりに歩いてあげることも、弟の代わりに話してあげることも、できないように。他人の壁は、誰にも奪えない。

その絶望を痛いほど思い知っているからこそ、せめて手を尽くさずにはいられなかった。愛する人と自分のために、なにかをしたいという切実なあがきが、壁に扉をつくった。

扉とは、小さな愛だ。
やむにやまれぬ衝動だ。
尽きることのない祈りだ。

扉の先には、また違った壁が待ち受ける。思いどおりにはならない、人生とはどこもかしこもつらく、苦しい壁の連続で。それでも、たしかにかつて、誰かと壁を扉に変えられたという過去が、人生をあたたかなものにしてくれる。

この壁ごと、扉ごと、人生ごと、わたしは愛している。

参考文献:澤田智洋『マイノリティデザインー弱さを生かせる社会をつくろう』(ライツ社,2021)
(c)岸田奈美/コルク